『雑の思想~世界の複雑さを愛するために』を読んだ

昨年、戸塚の善了寺というお寺の境内にある「カフェゆっくり堂」で、辻信一氏と高橋源一郎氏の対談イベントがあった。

雑の思想対談

カフェの店内には両氏がこれまで対談してきた内容を一冊にまとめた『雑の思想~世界の複雑さを愛するために』という本が平積みされていたので、話を聞き終わったあと、お二人のサインをもらったうえで買って帰ってきた。
著者の本にサインをもらうなんていうのははじめての体験だった。

政治、経済、歴史、文学など多岐にわたる問題を「雑」という切り口で語り合うこの対談集は、どの章も面白く読ませてもらったが、その中でも特に宗教の問題で高橋源一郎氏が紹介していたエピソードが印象に残った。

キリスト教のカトリックには、「幼児洗礼」というのがある。「幼児洗礼」とは赤ん坊のときに洗礼を受けて、キリスト教徒になる儀式だ。

かつてこの儀式に対して、自由意志のない赤ん坊がキリスト教徒になるなんていうことが許されるのかという大論争がキリスト教会内で起こった。

大神学者のカール・バルトは「意思なき人間と神が契約するというのは、キリスト教の最大の汚点である」とまで言ったという。

大神学者がそう言ったことで、誰もが沈黙したなか、スイスのキリスト教史学者のオスカー・クルマンという人が一人、カール・バルトの言うことに反論した。
「そもそも、信仰とは神との一対一の契約ではない。契約は資本主義の論理であって、洗礼は神からの一方的な贈与なのだ」と。

このキリスト教の神学論争はいまだに決着がついていないらしいが(そもそも決着のつくような話じゃない)、高橋源一郎氏はこのオスカー・クルマンの「洗礼は神からの一方的な贈与」という考え方のほうに共感し、その信仰に関する考え方は鎌倉仏教の親鸞の思想に通じるものだという。「なおもて善人往生を遂ぐ」という例のやつ。

ぼくも、日本人だからか檀家が浄土真宗だからだかはさだかではないが、信仰とは「契約」とかいう功利的なものではなく、やっぱり「神仏からの絶対的で一方的な慈愛に対する感謝の祈り」っていう方がしっくりくるな。

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